すきやばし次郎への達人のクチコミ
食べ物屋さんにはまったく物怖じしない方で、少なくとも数軒はある銀座一の寿司屋の一つ「次郎」に初めて行ったのは、学生の頃だったと思う。その当時と現在では事情が違っているはずだし、寿司をつまんだだけで、お店を堪能したとはいえないので採点は控えるが、「次郎」は優れた寿司屋の一軒であることを強調しておきたい。
なぜこんなことを急に書く気持ちになったかというと、テレビなどに良く出る評論家などが、一神教の信者よろしく「次郎」を唯一無二のように持ち上げ、いつしか名前と評価が一人歩きしてしまっているように危惧するからだ。例えば評論家氏がそう語る根拠の一つに、世界の名店のランキングでベスト5に入ったというのがあるのだが、世界というのはどういう意味なのだろう。投票した人たちは恐らく世界を飛び回るビジネスマンではないかと推察する。彼らが世界のホテルをランク付けすることに異論はないものの、寿司屋のランキングを正しく論じることが本当にできるのか。彼らの大部分が寿司を日常的には食べていないだろうし、日本の食文化にも日本語にも精通しているとは言い難い。生の魚を見て、それを識別する力は持っていない。あおりいかとすみいかの違いも、白身の種別もマグロの微妙な部位の違いもわからない。まして干瓢のおいしさなどわかるはずもない。そうした「世界」のランキングが信じるに値するのだろうか。
自分の経験から言って「次郎」は優れた寿司屋であることに間違いはない。しかし、それは銀座にあるその他の名店と合わせて銀座の素晴らしい寿司の一環を成しているという意味で、「次郎」だけが突出しているということではない。なぜなら、伝統文化の一つに数えられる寿司は、一見様式が確立されているようで、これほど個人主義的な営みが続けられている分野は少ないのだ。
天ぷら、うなぎ、そばなどでも、系統ごとの差異は様々にあるものの、寿司ほどアイテムごとの違いが明確な領域は極めて珍しい。だからこそ、「次郎」一軒だけでなく、なるべくたくさんの店をまず体験して、自分に合った店をその中から探すことが必要になってくる。その末に「次郎」に行き着くのもいいことだし、別の店の方がもっといいと判断することもまた自然だと思うのだ。
例をあげると、江戸前の代表的なネタである穴子。「次郎」の穴子は、白っぽく似て、煮詰めに軽く漬け込む。白いところのおいしさを完全には殺さず、残っている状態で握る。だから、よく浸かった味と白身の生(き)の味が両方同時に味わえる。品格のある穴子である。だが、穴子を塩で食べるのもまたおいしい。炙りなおして、穴子の脂肪をとろかして味わう方法もある。「寿司幸」のように酢飯の底面に巻き込むような握り方もまたいい。「新富寿し」のように濃い煮詰めに長時間浸して、生っぽい要素を消すやり方も迫力がある。煮詰めは注ぎ足しで作るわけだから、職人の腕がかつてより衰えていることが仮にあったとしても、少なくとも煮詰めは間断なく成長を続けるはずで、煮詰めを江戸前の寿司文化から排除しないのであれば、そのためだけにでも「新富寿し」に行く価値はある。
穴子の例にとどまらず、小肌にしたって、店ごとに塩の時間や酢洗いのやり方など、一軒ごとにばらばらで、「次郎」のやり方のみが正道などということは言えない。違いがあるから寿司は面白い。また、イクラなど邪道とし、あたかもイクラに力を入れる店を軽視する風潮が浸透していたりもするが、イクラほど仕入れとその後の仕込みが難しいネタはない。醤油を立たせず、魚卵の甘味を生かし、さらに茶せんで柑橘の皮のおろしを振る「久兵衛」のイクラは、江戸前の握りの中でも最高峰と言っていい。
こうしたことを実際に自分の目で確かめてみれば、ある一つの寿司屋のみで、江戸前寿司のすべてを語ろうとする試みが、いかに危険であるかがわかるだろう。まして、江戸前寿司は現在日本全国に広まっており、現在の「江戸前」では寿司ネタのほとんどをまかなえず、地方からの魚の輸送に頼っている現状を考慮すれば、地方にある寿司屋の名店だって「次郎」に引けを取るとは必ずしも言えない。江戸前は料理の技術である、などという反論があるかもしれないが、技術であるならば移植可能なのであり、移植不可能なのは素材の方であることを忘れてはならないだろう。技術が移植できないなら、東京にフランス料理店が成立するはずはないし、外国料理店を一切認めないという立場を取らなければならなくなる。
繰り返すが「次郎」は名店の一つであって、決して寿司のすべてではないのだ。
なぜこんなことを急に書く気持ちになったかというと、テレビなどに良く出る評論家などが、一神教の信者よろしく「次郎」を唯一無二のように持ち上げ、いつしか名前と評価が一人歩きしてしまっているように危惧するからだ。例えば評論家氏がそう語る根拠の一つに、世界の名店のランキングでベスト5に入ったというのがあるのだが、世界というのはどういう意味なのだろう。投票した人たちは恐らく世界を飛び回るビジネスマンではないかと推察する。彼らが世界のホテルをランク付けすることに異論はないものの、寿司屋のランキングを正しく論じることが本当にできるのか。彼らの大部分が寿司を日常的には食べていないだろうし、日本の食文化にも日本語にも精通しているとは言い難い。生の魚を見て、それを識別する力は持っていない。あおりいかとすみいかの違いも、白身の種別もマグロの微妙な部位の違いもわからない。まして干瓢のおいしさなどわかるはずもない。そうした「世界」のランキングが信じるに値するのだろうか。
自分の経験から言って「次郎」は優れた寿司屋であることに間違いはない。しかし、それは銀座にあるその他の名店と合わせて銀座の素晴らしい寿司の一環を成しているという意味で、「次郎」だけが突出しているということではない。なぜなら、伝統文化の一つに数えられる寿司は、一見様式が確立されているようで、これほど個人主義的な営みが続けられている分野は少ないのだ。
天ぷら、うなぎ、そばなどでも、系統ごとの差異は様々にあるものの、寿司ほどアイテムごとの違いが明確な領域は極めて珍しい。だからこそ、「次郎」一軒だけでなく、なるべくたくさんの店をまず体験して、自分に合った店をその中から探すことが必要になってくる。その末に「次郎」に行き着くのもいいことだし、別の店の方がもっといいと判断することもまた自然だと思うのだ。
例をあげると、江戸前の代表的なネタである穴子。「次郎」の穴子は、白っぽく似て、煮詰めに軽く漬け込む。白いところのおいしさを完全には殺さず、残っている状態で握る。だから、よく浸かった味と白身の生(き)の味が両方同時に味わえる。品格のある穴子である。だが、穴子を塩で食べるのもまたおいしい。炙りなおして、穴子の脂肪をとろかして味わう方法もある。「寿司幸」のように酢飯の底面に巻き込むような握り方もまたいい。「新富寿し」のように濃い煮詰めに長時間浸して、生っぽい要素を消すやり方も迫力がある。煮詰めは注ぎ足しで作るわけだから、職人の腕がかつてより衰えていることが仮にあったとしても、少なくとも煮詰めは間断なく成長を続けるはずで、煮詰めを江戸前の寿司文化から排除しないのであれば、そのためだけにでも「新富寿し」に行く価値はある。
穴子の例にとどまらず、小肌にしたって、店ごとに塩の時間や酢洗いのやり方など、一軒ごとにばらばらで、「次郎」のやり方のみが正道などということは言えない。違いがあるから寿司は面白い。また、イクラなど邪道とし、あたかもイクラに力を入れる店を軽視する風潮が浸透していたりもするが、イクラほど仕入れとその後の仕込みが難しいネタはない。醤油を立たせず、魚卵の甘味を生かし、さらに茶せんで柑橘の皮のおろしを振る「久兵衛」のイクラは、江戸前の握りの中でも最高峰と言っていい。
こうしたことを実際に自分の目で確かめてみれば、ある一つの寿司屋のみで、江戸前寿司のすべてを語ろうとする試みが、いかに危険であるかがわかるだろう。まして、江戸前寿司は現在日本全国に広まっており、現在の「江戸前」では寿司ネタのほとんどをまかなえず、地方からの魚の輸送に頼っている現状を考慮すれば、地方にある寿司屋の名店だって「次郎」に引けを取るとは必ずしも言えない。江戸前は料理の技術である、などという反論があるかもしれないが、技術であるならば移植可能なのであり、移植不可能なのは素材の方であることを忘れてはならないだろう。技術が移植できないなら、東京にフランス料理店が成立するはずはないし、外国料理店を一切認めないという立場を取らなければならなくなる。
繰り返すが「次郎」は名店の一つであって、決して寿司のすべてではないのだ。