ラ・プレシューズへの達人のクチコミ
熊は冬眠前に八千個の栗を食べるという。
海辺の町に流れついた。リュックを軽く揺すって重心を整え、港を一望する。水平線が薄ぼんやりと滲んで見える。波音の方へと誘われるまま、疲れた足をさらに引きずった。赤、黄、緑、紫、青、橙のトタン屋根の合間に、海のうねりと白い泡が途切れて見える。行き行けば、水兵相手の食堂が建ち並ぶ海岸沿いの通りへと出ていた。そこから裏通りに回り、少し道を外れたところで足を止めた。岬の突端に近い、こんな場所にケーキ屋さんを見つけた。
遠くの波の音が背中でドラマチックな余韻を残して消える。仕切りのあるテラス。洗練された趣味人が集うであろうモダンな空間。潮の結晶がガラスに付着して模様を作っている。中の空気が漏れないようにドアを細く空けて体をそっと滑り込ませた。
「お勧めをひとつ」と指を立てて、テラスに陣取る。先客は一人だ。
匂いをかぐ。和栗のそれは、和栗そのものの主張が強い。野性の香りだ。虫やミミズが、落ち葉や湿った土の下を這いずり回っている。と、海を忘れ、大地に吸い寄せられる。熊笹の中を四足で闊歩している。地面に鼻面を擦りつけている。あう、あうと低く叫ぶ。熊か…。晩秋の熊は八千個の栗を食べるという。この店のモンブランなら二千個を食べる勘定であろうか。私は皿を押し頂くように掲げ、しなだれるように絞られた薄緑の栗、純白のシャンティ、分厚いメレンゲの生地に感心しながら、隣の男に話しかける。「熊は冬眠前に八千個の栗を食べるんですと。なんとまあ豪奢な生活か。モンブランだと何個の勘定でしょうなあ」だが、これはと思うモンブランを探し当てて口元がほころんでいたからか、旅の疲れか、男が熊に似ていたからか、私はいらないことまで次々に喋ってしまう。恐い容貌になった男は急に立ち上がる。
「何言ってる。ここは東京のど真ん中、広尾だ。外に海なんかない。潮騒、あれは車の騒音だ。波の飛沫、汚れた雨だよ。汽笛、銅鑼の音、クラクションに決まってる。今はラッシュアワーだ。世間は忙しく動いてる」ひげの男は伝票を引っつかんで、手早く会計を済ませ、お釣りを1円玉まで丁寧に数えてポケットに入れると、サングラス越しに私をひと睨みし、「熊に食われちまうがいい」と捨て台詞を残して、長い手足を持て余すような歩き方で出口に向かった。店を出る前、余韻の無化を成し遂げるように、ひげ男はわざとしばらく扉を空けたままにした。
一気になだれ込んできたのは、悲鳴混じりの都市の嘆きだった。
ラ・プレシューズへのその他のクチコミ
海辺の町に流れついた。リュックを軽く揺すって重心を整え、港を一望する。水平線が薄ぼんやりと滲んで見える。波音の方へと誘われるまま、疲れた足をさらに引きずった。赤、黄、緑、紫、青、橙のトタン屋根の合間に、海のうねりと白い泡が途切れて見える。行き行けば、水兵相手の食堂が建ち並ぶ海岸沿いの通りへと出ていた。そこから裏通りに回り、少し道を外れたところで足を止めた。岬の突端に近い、こんな場所にケーキ屋さんを見つけた。
遠くの波の音が背中でドラマチックな余韻を残して消える。仕切りのあるテラス。洗練された趣味人が集うであろうモダンな空間。潮の結晶がガラスに付着して模様を作っている。中の空気が漏れないようにドアを細く空けて体をそっと滑り込ませた。
「お勧めをひとつ」と指を立てて、テラスに陣取る。先客は一人だ。
匂いをかぐ。和栗のそれは、和栗そのものの主張が強い。野性の香りだ。虫やミミズが、落ち葉や湿った土の下を這いずり回っている。と、海を忘れ、大地に吸い寄せられる。熊笹の中を四足で闊歩している。地面に鼻面を擦りつけている。あう、あうと低く叫ぶ。熊か…。晩秋の熊は八千個の栗を食べるという。この店のモンブランなら二千個を食べる勘定であろうか。私は皿を押し頂くように掲げ、しなだれるように絞られた薄緑の栗、純白のシャンティ、分厚いメレンゲの生地に感心しながら、隣の男に話しかける。「熊は冬眠前に八千個の栗を食べるんですと。なんとまあ豪奢な生活か。モンブランだと何個の勘定でしょうなあ」だが、これはと思うモンブランを探し当てて口元がほころんでいたからか、旅の疲れか、男が熊に似ていたからか、私はいらないことまで次々に喋ってしまう。恐い容貌になった男は急に立ち上がる。
「何言ってる。ここは東京のど真ん中、広尾だ。外に海なんかない。潮騒、あれは車の騒音だ。波の飛沫、汚れた雨だよ。汽笛、銅鑼の音、クラクションに決まってる。今はラッシュアワーだ。世間は忙しく動いてる」ひげの男は伝票を引っつかんで、手早く会計を済ませ、お釣りを1円玉まで丁寧に数えてポケットに入れると、サングラス越しに私をひと睨みし、「熊に食われちまうがいい」と捨て台詞を残して、長い手足を持て余すような歩き方で出口に向かった。店を出る前、余韻の無化を成し遂げるように、ひげ男はわざとしばらく扉を空けたままにした。
一気になだれ込んできたのは、悲鳴混じりの都市の嘆きだった。