パティスリー アテスウェイへの達人のクチコミ
当サイトに書き込みをするようになって数年、若手から中堅のフランス菓子職人の仕事を自分なりに見てきたが、伸びていないというのが正直な感想だ。一方、コンクールの優勝者と言われる作り手はめっきり増えた。私の主観は誤りで、日本のフランス菓子の実力は飛躍的に伸び、いまやフランス菓子大国の域に達しているのかといえば、そうはなっていない。なぜなら、そんなにすごい国ならフランスから日本のフランス菓子を学びに来る職人がいてもいい。フランスが無理なら、アメリカ人は、オーストラリア人は、と考えても恐らく皆無だ。職人は常に輸出超過であり、貿易不均衡問題が是正されていない。コンクールっていったいなんなのか。本当に味覚の審査をしているのか、する意欲があるのか。常にその点で疑問を持っている。味覚審査よりもデザインの審査ではあるまいか。それなら「カリスマ」や「天才」だらけという情況は、理解できる。デザイン性の審査は必要だと思うし、コンクール自体も目標値としての意味はこれからも持ちつづけてほしいが、菓子屋の仕事はコンクールで勝つことではない。料理はスポーツではないのだ。サッカーのワールドカップは、サッカー選手の仕事だ。菓子職人の仕事は店に来る客にお菓子を提供すること、毎日地道に作ることに尽きる。このことを日本人がすっかり忘れているとしたら残念だ。
フランス菓子店の評価軸ははっきりしている。ミルフィーユの出来次第。ミルフィーユを焼かない菓子職人はそれ以外の仕事がどんなに素晴らしくとも絶対に評価はしない。「タカギ」、「パリセヴェイユ」、「イデミスギノ」、世間的には天才だろうが、私には餡子を炊かない和菓子屋に等しい。フランス人が毎日食べるものといったらフランスパンだが、外側のよく焼けた硬い皮と中身の柔らかさのコントラスト、これは彼らの精神の表現であり、それがもっとも明瞭な形で現れる菓子がミルフィーユである。だから好意的になりたくても、彼らはそうさせてくれないのだ。日本人だってフランスパンを結構食べるが、フランス人は生まれてから死ぬまで、あのコントラストの塊を食べつづける。一生涯。そのことの意味を噛み締めるとき、そして実際に現地で同じことをやってみるとき、日本人とフランス人の感性がどれほど違うかがわかる。日本でどんなにフランスパンを食べ込んでいても、毎日あれだと、段々苦しくなって、最後にはフランス人が怖くなってくる。しかしそれを突き抜けたところにしか異文化との本当の接点は見えてこない。
このアテスウェイも、知る限りミルフィーユを焼かない職人で、天才かカリスマのどちらからしい。そうかもしれないが、ミルフィーユを焼いてくれるまではわからない。現状で、満足か、不満足かと聞かれれば、無論不満足。理由は以上に述べたとおりだ。
ミルフィーユはさておくとして、この菓子屋で気になる点はハーモニーの欠如である。代表例が「ショーソン・オ・ポンム」。大きく膨らんだパイ生地の焼き目はなかなかよろしいが、りんごとパイ生地の間に、なんとクレームダマンドが挟まっていた。バターたっぷりの生地と甘酸っぱいりんごのコンポート、というあまりにも明快な対立概念が、ガツン、と真正面からぶつかって、ハーモニーが生起されるはずが、バターの風味がアーモンドで邪魔され、りんごの酸味はこれに吸い取られて、持ち味をなくしスローダウンした抜け殻どうしが対面する。パイ生地は良、りんごのコンポートも良、クレームダマンドも良。三つが重なったことの悲劇である。
「マリア」、このお菓子を食べたとき、コンクールの長所と同時に、現在の審査法では弊害も遠からず指摘されるだろう、と思った。「フランス菓子とは家電製品と同じくスイッチが入って回路が作動し、しかるべき動作をする一つの装置である」これが持論であるが、スイッチがどれか迷った。回路はあるにはあるが、配線がことごとく寸断されていた。あの表面のグラニュー糖で作った丸い板は何だったのか。かなり厚みがあり、あれを食べるお菓子の要素と考えるのか、取り外し可能な飾りの部材と考えるのかがわからない。通常は付けたまま食べるべきだろう。外して食べたが、外された砂糖の板はどういう気持ちでこのお菓子(タルト)の脇に寄り添っているのかと深刻に悩んだ。構成要素を部分で判断すると、手抜かりはない。しかし構成要素が組み合わさって感じるハーモニー、第三の味が立ち上がらず、要素の持ち味のすべてを、食べ手である自分が、噛みながらすべて消しているような気になった。比較的厚みのあるパートシュクレはよく焼けている。しかし、これは上半分の牛乳で作ったはかないゼリーみたいなトロンとしたムースとは合わない。がっちりした生地は滞留時間が長くなるから、口溶けの遅い、油脂の割合の多いアパレイユ、クレームを合わせるのが基本。ムースは水分が多く(イタリアンメレンゲが入るので)油脂の比率は下がる配合だから、生地が厚い場合は、ババロア的な古典的な固めの配合の方がいい。パータボンプにしろ、アングレーズにしろ、卵黄のベースの割合が低過ぎる。ムース部分自体、単体で問題がまったくないかと言えば、そうでもない。中に苺が一片混ざっていて、苺のムースだという主張なのだが、トッピングは木苺三個で、これは木苺のムースだという主張になり、バッティングする。味は淡く、どちらともつかない。木苺は浮いている感じで、ムースとも生地とも作用しない。複雑な構成の菓子で、生地の上には木苺のジャムが塗られていてその上にはクレームダマンドがたっぷり、さらに木苺の果肉と混ざったキャラメルソースが封じ込められ、ここから上にムースが乗っかり、下が透けて見える半透明の板がつづくわけだが、もう一つの問題はキャラメルソースである。このほろ苦さは、タルトの下半分に強い力で引き寄せられていて、上半分のムースとは水と油である。またキャラメルソース内部の問題として、木苺とキャラメルソースは合うのか、がある。合うか合わないかは、カリスマの舌だろうと、凡人の舌だろうとそんなに大きな差はないだろう。音楽と同じで協和音と不協和音は誰でも聞き分けられる。そうした原理性が食味の芸術的な領域を支えている。簡単なハーモニーのチェック法として、爪楊枝の利用がある。爪楊枝を使って、サイコロに切った二種類の果物を差して食べてみる。この場合なら、木苺1個を刺して、キャラメルソースに浸して食べる。このときハーモニーを感じるかどうか。これを検査すればお菓子として組み立てたときどうなるかがわかる。このチェックで×なら、お菓子の中に使って○に変化することは基本的にはない。あるとしても非常に稀だ。以上のように「マリア」は、上半分と下半分の著しい分断が見られ、下半分にもおさまりの悪い組み合わせがみとめられ、全体として各パーツが互いにハーモニーを阻害するように構成されている。一言で言えば、スイッチを入れようとしてもうまくいかず、入れてはみたが、装置はうまく動作しなかった。
「アテスウェイ」に限らず、若手のフランス菓子職人に言いたいのは、味が大前提ということ。デザイン性は大事だが、2番目でしかないということ。自分の作ったお菓子をしっかり丸ごと時間をかけて咀嚼すること。疑問を感じたら、素直に認め(自分は気づくが客は気づかないと過信してはいけない)、なるべく複雑化ではなく単純化の中に解決法を見つけようとすること。デザイン画から入らないこと。そこから始めると完成された塗り絵に同じ色の果物をあてはめてゆくことになる。
フランス菓子店の評価軸ははっきりしている。ミルフィーユの出来次第。ミルフィーユを焼かない菓子職人はそれ以外の仕事がどんなに素晴らしくとも絶対に評価はしない。「タカギ」、「パリセヴェイユ」、「イデミスギノ」、世間的には天才だろうが、私には餡子を炊かない和菓子屋に等しい。フランス人が毎日食べるものといったらフランスパンだが、外側のよく焼けた硬い皮と中身の柔らかさのコントラスト、これは彼らの精神の表現であり、それがもっとも明瞭な形で現れる菓子がミルフィーユである。だから好意的になりたくても、彼らはそうさせてくれないのだ。日本人だってフランスパンを結構食べるが、フランス人は生まれてから死ぬまで、あのコントラストの塊を食べつづける。一生涯。そのことの意味を噛み締めるとき、そして実際に現地で同じことをやってみるとき、日本人とフランス人の感性がどれほど違うかがわかる。日本でどんなにフランスパンを食べ込んでいても、毎日あれだと、段々苦しくなって、最後にはフランス人が怖くなってくる。しかしそれを突き抜けたところにしか異文化との本当の接点は見えてこない。
このアテスウェイも、知る限りミルフィーユを焼かない職人で、天才かカリスマのどちらからしい。そうかもしれないが、ミルフィーユを焼いてくれるまではわからない。現状で、満足か、不満足かと聞かれれば、無論不満足。理由は以上に述べたとおりだ。
ミルフィーユはさておくとして、この菓子屋で気になる点はハーモニーの欠如である。代表例が「ショーソン・オ・ポンム」。大きく膨らんだパイ生地の焼き目はなかなかよろしいが、りんごとパイ生地の間に、なんとクレームダマンドが挟まっていた。バターたっぷりの生地と甘酸っぱいりんごのコンポート、というあまりにも明快な対立概念が、ガツン、と真正面からぶつかって、ハーモニーが生起されるはずが、バターの風味がアーモンドで邪魔され、りんごの酸味はこれに吸い取られて、持ち味をなくしスローダウンした抜け殻どうしが対面する。パイ生地は良、りんごのコンポートも良、クレームダマンドも良。三つが重なったことの悲劇である。
「マリア」、このお菓子を食べたとき、コンクールの長所と同時に、現在の審査法では弊害も遠からず指摘されるだろう、と思った。「フランス菓子とは家電製品と同じくスイッチが入って回路が作動し、しかるべき動作をする一つの装置である」これが持論であるが、スイッチがどれか迷った。回路はあるにはあるが、配線がことごとく寸断されていた。あの表面のグラニュー糖で作った丸い板は何だったのか。かなり厚みがあり、あれを食べるお菓子の要素と考えるのか、取り外し可能な飾りの部材と考えるのかがわからない。通常は付けたまま食べるべきだろう。外して食べたが、外された砂糖の板はどういう気持ちでこのお菓子(タルト)の脇に寄り添っているのかと深刻に悩んだ。構成要素を部分で判断すると、手抜かりはない。しかし構成要素が組み合わさって感じるハーモニー、第三の味が立ち上がらず、要素の持ち味のすべてを、食べ手である自分が、噛みながらすべて消しているような気になった。比較的厚みのあるパートシュクレはよく焼けている。しかし、これは上半分の牛乳で作ったはかないゼリーみたいなトロンとしたムースとは合わない。がっちりした生地は滞留時間が長くなるから、口溶けの遅い、油脂の割合の多いアパレイユ、クレームを合わせるのが基本。ムースは水分が多く(イタリアンメレンゲが入るので)油脂の比率は下がる配合だから、生地が厚い場合は、ババロア的な古典的な固めの配合の方がいい。パータボンプにしろ、アングレーズにしろ、卵黄のベースの割合が低過ぎる。ムース部分自体、単体で問題がまったくないかと言えば、そうでもない。中に苺が一片混ざっていて、苺のムースだという主張なのだが、トッピングは木苺三個で、これは木苺のムースだという主張になり、バッティングする。味は淡く、どちらともつかない。木苺は浮いている感じで、ムースとも生地とも作用しない。複雑な構成の菓子で、生地の上には木苺のジャムが塗られていてその上にはクレームダマンドがたっぷり、さらに木苺の果肉と混ざったキャラメルソースが封じ込められ、ここから上にムースが乗っかり、下が透けて見える半透明の板がつづくわけだが、もう一つの問題はキャラメルソースである。このほろ苦さは、タルトの下半分に強い力で引き寄せられていて、上半分のムースとは水と油である。またキャラメルソース内部の問題として、木苺とキャラメルソースは合うのか、がある。合うか合わないかは、カリスマの舌だろうと、凡人の舌だろうとそんなに大きな差はないだろう。音楽と同じで協和音と不協和音は誰でも聞き分けられる。そうした原理性が食味の芸術的な領域を支えている。簡単なハーモニーのチェック法として、爪楊枝の利用がある。爪楊枝を使って、サイコロに切った二種類の果物を差して食べてみる。この場合なら、木苺1個を刺して、キャラメルソースに浸して食べる。このときハーモニーを感じるかどうか。これを検査すればお菓子として組み立てたときどうなるかがわかる。このチェックで×なら、お菓子の中に使って○に変化することは基本的にはない。あるとしても非常に稀だ。以上のように「マリア」は、上半分と下半分の著しい分断が見られ、下半分にもおさまりの悪い組み合わせがみとめられ、全体として各パーツが互いにハーモニーを阻害するように構成されている。一言で言えば、スイッチを入れようとしてもうまくいかず、入れてはみたが、装置はうまく動作しなかった。
「アテスウェイ」に限らず、若手のフランス菓子職人に言いたいのは、味が大前提ということ。デザイン性は大事だが、2番目でしかないということ。自分の作ったお菓子をしっかり丸ごと時間をかけて咀嚼すること。疑問を感じたら、素直に認め(自分は気づくが客は気づかないと過信してはいけない)、なるべく複雑化ではなく単純化の中に解決法を見つけようとすること。デザイン画から入らないこと。そこから始めると完成された塗り絵に同じ色の果物をあてはめてゆくことになる。