おざわへのクチコミ
12時ちょっと前に店に入ると、ほぼ8割方は埋まっている。テーブルが丸々二つ空いていたが、相席の大きいテーブルのほうに誘われる。こういうところが、人によってはサービスがよくないと映るんだろうな。しかし、こんな小さなキャパシティの店で、なおかつこれほど人気化してしまった以上、仕様がないと思う。私は、相席はそれほど気にしないほうだが、それでも若いカップルの無内容なおしゃべりに付き合わなければならないとしたら、やはり不愉快だろう。本来、蕎麦屋という所は、そういう確率が非常に低い所であるはずだが、おざわあたりは結構危ない。今日も、端のテーブルでは若い女性の二人組が談笑していたが、聞こえないのは幸いだった。細打ちのざるとねぎ蕎麦を注文する。
結構混んでいたせいもあって、今日は蕎麦がやって来るのが遅く感じられた。ハングル語の本を取り出して読むが、店内の照明が暗いのでよく読めない。こちらの目が良くないというのもあるが、この照明は暗すぎないか? 仕方ないので、周囲の人間ウォッチング。大きな6人掛けのテーブルの対角にそれぞれ一人の客が座っていたが、私の右隣は、私と同じものを注文していたようだが、長っ尻は良くねえとばかりに食べ終わるとすぐ出て行った。私の対角線上にいた客は、たぶんざるだけを食べてすぐ出て行った。どちらも近所の人だろう。だが、私の前の客は、明らかにそうではなかった。ずっとメニューに見入って、やがて割り箸の紙になにやらメモし出し、遂には店に馴染むにしたがって、「この辛味大根のこの産地には何か意味があるの?」とか、「9割5分って何?」とかを若女将に色々訊いている。無粋だなあと思う。めったに使わない言葉なのだが、ググレカスという言葉が自然と浮かんでくる。
無「粋」という言葉を使ったので、「粋」という言葉について一言。(東京の)蕎麦(屋)は、「江戸っ子」の「粋」と結び付けられて語られることが多い。蕎麦はたぐるもんだ、汁にあまりつけるな、蕎麦で腹を満たすな……。東京の由緒ある蕎麦屋で、結構高い値段の割には蕎麦がわずかしかないことに立腹するのは「無粋」もいいところだ。だが言うまでもなく、世の中、無粋な人間は山ほどいる。そして東京の由緒ある蕎麦屋は、嘆かわしいくらいのわずかな蕎麦しか出さないことで、世の中の大勢に無粋の烙印を押すという浄化的な仕事を頑固にはたしているのであろう (そう言えば、今日の私のように、ざるとかけ2品頼むなんてことも「無粋」かもしれないなあ。ま、私は粋とは無縁な人間ですがね)。
蕎麦は、元来、間食につまむようなものだった、だから蕎麦で腹を満たしてはいけないとは、並木藪の先代をはじめ、由緒ある蕎麦屋の店主のインタビューで何度か読んだ記憶がある。蕎麦は、どちらかというと生活に余裕のある人が小腹をすかせたときにつまむものという位置づけだったようである。それを良しとする感性にとっては、大食いは無粋の極みみたいなものだろう。だが、その一方で、「たぐる」とは、元来、大工の言葉であり、「宵越しの銭はもたねえ」という啖呵も、言ってみれば、日銭で暮らす肉体労働者の言葉である。そういう人間には、粋か無粋かなんてことは二の次で、腹を満たすことが、兎にも角にも、先決問題としてあったはずだ。だから、蕎麦屋での作法として引き合いに出される「江戸っ子」の「粋」なるものには、両立しがたいものがごっちゃになっているような気がするし(そこで、「江戸っ子」にも二種類あるという説が出されたりするのだが)、そこで語られる「江戸っ子」なるものも、多分に虚構でしかないように思われる。したがって、蕎麦屋での作法も、多分にいかがわしいと思って大過ないと私などは思っている(明治以降の落語の影響が大きいという説があって、多分そうなのだろうと思う)。けれど、忙しく働いている若女将にあれこれ質問攻めにするのは絶対的に「無粋」であろう。
さて、出てきたざるは、相変わらず普通に美味かったが、初めて頼んだ「ねぎ蕎麦」は、コンセプトとしては非常に良い。俗っぽく言えば、「ねぎラーメン」の蕎麦バージョン。ねぎが美味かった。ただし、蕎麦が柔々なのは何故? 何かの手違い? それとも、こういうものなの? これは若女将に聞きたかったのだが、再訪したときのお楽しみということで、店を後にした。
(理由ありで1月24日訪問時の感想です)。
昼 1,000~3,000円
結構混んでいたせいもあって、今日は蕎麦がやって来るのが遅く感じられた。ハングル語の本を取り出して読むが、店内の照明が暗いのでよく読めない。こちらの目が良くないというのもあるが、この照明は暗すぎないか? 仕方ないので、周囲の人間ウォッチング。大きな6人掛けのテーブルの対角にそれぞれ一人の客が座っていたが、私の右隣は、私と同じものを注文していたようだが、長っ尻は良くねえとばかりに食べ終わるとすぐ出て行った。私の対角線上にいた客は、たぶんざるだけを食べてすぐ出て行った。どちらも近所の人だろう。だが、私の前の客は、明らかにそうではなかった。ずっとメニューに見入って、やがて割り箸の紙になにやらメモし出し、遂には店に馴染むにしたがって、「この辛味大根のこの産地には何か意味があるの?」とか、「9割5分って何?」とかを若女将に色々訊いている。無粋だなあと思う。めったに使わない言葉なのだが、ググレカスという言葉が自然と浮かんでくる。
無「粋」という言葉を使ったので、「粋」という言葉について一言。(東京の)蕎麦(屋)は、「江戸っ子」の「粋」と結び付けられて語られることが多い。蕎麦はたぐるもんだ、汁にあまりつけるな、蕎麦で腹を満たすな……。東京の由緒ある蕎麦屋で、結構高い値段の割には蕎麦がわずかしかないことに立腹するのは「無粋」もいいところだ。だが言うまでもなく、世の中、無粋な人間は山ほどいる。そして東京の由緒ある蕎麦屋は、嘆かわしいくらいのわずかな蕎麦しか出さないことで、世の中の大勢に無粋の烙印を押すという浄化的な仕事を頑固にはたしているのであろう (そう言えば、今日の私のように、ざるとかけ2品頼むなんてことも「無粋」かもしれないなあ。ま、私は粋とは無縁な人間ですがね)。
蕎麦は、元来、間食につまむようなものだった、だから蕎麦で腹を満たしてはいけないとは、並木藪の先代をはじめ、由緒ある蕎麦屋の店主のインタビューで何度か読んだ記憶がある。蕎麦は、どちらかというと生活に余裕のある人が小腹をすかせたときにつまむものという位置づけだったようである。それを良しとする感性にとっては、大食いは無粋の極みみたいなものだろう。だが、その一方で、「たぐる」とは、元来、大工の言葉であり、「宵越しの銭はもたねえ」という啖呵も、言ってみれば、日銭で暮らす肉体労働者の言葉である。そういう人間には、粋か無粋かなんてことは二の次で、腹を満たすことが、兎にも角にも、先決問題としてあったはずだ。だから、蕎麦屋での作法として引き合いに出される「江戸っ子」の「粋」なるものには、両立しがたいものがごっちゃになっているような気がするし(そこで、「江戸っ子」にも二種類あるという説が出されたりするのだが)、そこで語られる「江戸っ子」なるものも、多分に虚構でしかないように思われる。したがって、蕎麦屋での作法も、多分にいかがわしいと思って大過ないと私などは思っている(明治以降の落語の影響が大きいという説があって、多分そうなのだろうと思う)。けれど、忙しく働いている若女将にあれこれ質問攻めにするのは絶対的に「無粋」であろう。
さて、出てきたざるは、相変わらず普通に美味かったが、初めて頼んだ「ねぎ蕎麦」は、コンセプトとしては非常に良い。俗っぽく言えば、「ねぎラーメン」の蕎麦バージョン。ねぎが美味かった。ただし、蕎麦が柔々なのは何故? 何かの手違い? それとも、こういうものなの? これは若女将に聞きたかったのだが、再訪したときのお楽しみということで、店を後にした。
(理由ありで1月24日訪問時の感想です)。